「神の言葉が蒔かれた」 03−03−30
ルカ8:4〜15
主は、たとえ話をされました。4種類の地面に蒔かれた種の話です。
道端、石地、茨の中に落ちた種は実を結びませんが、よい地に
落ちた種は豊かに実を結ぶのです。このたとえ話の「種」は、「神の
言葉」であり、神の言葉を与えられている私たち自身が、どのような
地面であるかを問われます。
もちろん私たちは「良い土地になろう」と願うのです。せっかく自分に
与えられた御言葉を、道端のように鳥に食べられてしまうようにしよう。
石地のように枯らせてしまわないように、しっかり心に刻もう。
茨(いばら)の中のように、御言葉を覆ってしまうことがないようにしよう。
ところが、そのようにして、良い土地になることを目指して信仰生活を
送ってはいますが、振り返ってみれば、良い土地とはとても言えない
自分の姿を発見するのです。
信仰生活を送る中で、何度もこのたとえ話を聞いて来たことでしょう。
初めて聞いた話ではありません。そうであれば、主はいまだに良い
土地になりきれない私たちをどんな風にご覧になるのでしょうか。
「まだ石がある、茨が生えている。そんなことでは実は結べないぞ!」と
叱っておられるのでしょうか。
このたとえ話を聞いた時、弟子たちは主イエスの所に行きます。
ここにこのたとえ話の光があります。主を必要とし、主を求める者に、
良い土地となる道が開かれていくのです。なぜならその時、主イエスは
私たちの農夫となってくださるからです。
良い土地とは、農夫がいる土地なのです。農夫がいるゆえに、鳥は
近寄ってきません。石が取り除かれます。茨が刈り取られます。農夫を
必要とし、農夫が一緒にいてくれることを願い求める時に、主が
私たちを良い土地へと変えていってくださるのです。
そして「私を必要とするあなた方の農夫となる」と、おっしゃって
くださる主に出会うのです。
だから私たちは、このたとえ話を喜んで聞くのです。
自分には、まだ石や茨があるといって嘆くのでなく、主イエスが
私たちを良い土地にしてくださる方だと信じるからです。